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一人称単数をどう読むのか?

 遅れること2年。ようやく村上春樹の「一人称単数」を読んだ。

 

 俺は村上春樹のファンだ。熱烈なファンと言ってもいいかもしれない。彼の著作は長編はもちろん、短編、エッセイ、ほとんど全て読んだし、手元に置いてある。

 

村上春樹との出会い

 

 俺と村上春樹の出会いは高校生の頃。

 タイトルがカッコいいと言う理由だけで『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を読んだのがきっかけである。

 この本に度肝を抜かれた。小難しいお話かと思いきや、内容はSF&ファンタジーであり、主人公達は大冒険を繰り広げる。その姿に魅了され、本を捲る手が止まらなかった。そして訪れた結末は主人公視点から見ればハッピーエンドなのだが、恐らく客観的に見た時、これ以上ないバッドエンドとも捉えられるなんとも余韻を残す終わり方だった。

 当時、まだ村上作品が内包する東洋思想や深層心理の知識はまったくなかったが、とにかく読んでいるだけで気持ちがいいシンプルだけどリズミカルな文体と勧善懲悪とは言い切れない我々が生きる世界をメタファーとして描く不思議なお話は俺を掴んで離さなかった。

 

 親戚や家族に『お前のような馬鹿に村上春樹なんて理解できまい』とせせら笑われることもあったが、彼らはまったくとんでもない勘違いをしている。

 読書における最も重要な要素は『楽しいか否か』であり、理解は楽しくさせるひとつのセンテンスに過ぎない。

 そういう意味では俺は大いに読書を楽しんだ。

 

ハルキスト憎し

 

 話は脱線するが、『村上春樹は難解で気取っていていけすかない』という風潮があるように思える。しかし、これは大きな間違いだ。村上春樹自身は酒とヤクルトスワローズが大好きで服に頓着はないが、音楽にはうるさい変わり者の面白おじさんであるし、彼の物語も大筋だけを読み取るととてもシンプルな作品が多い。

 ではなぜ『村上憎し』の風潮が出来たかというと、完全にハルキストと呼ばれる一部の『原理主義的』な異常者のせいである。

 彼らは村上作品に登場する音楽や酒を好み、村上作品を崇高なる聖書と勘違いし、村上作品以外を貶す不届き者である。さらに言えば秋口になると、ノーベル文学賞受賞がどーだと騒ぎ出す。村上春樹自身が『毎年騒がれるのは気が滅入る』と言っているのにお構いなしだ。

 こんな人間達が好きな小説を誰が読みたいと思うだろうか。

 村上春樹自身、ハルキストという呼び方をあんまりよく思っていないようで、自身のファンに『村上主義者』と少し野暮ったい名前を贈っていた。

 

村上春樹の老境

 

 さて、話がそれにそれているので戻そう。

 村上春樹の短編集が出たのが2020年。

 今は2023年の3月。やけに間が空いた。

 これには理由がある。それは『村上春樹は老年期に突入してしまったのではないか?』と言う怖さだ。

 

 『騎士団長殺し』で俺はその予兆を感じた。騎士団長殺しは、個人的に村上長編作の中では緻密さよりも『エモーショナル』に舵取りした作品のように思えてならない。

 つまるところ、これまではまるで煉瓦造りの家を作るときのように精密で計算して物語を作り上げていたのに、騎士団長殺しではその緻密さが足りていない気がした。その代わり、村上春樹と言う1人の男が抱える感情、情景、人生における経験が地の文で語られ、あるときは登場人物の口から語られているように思えてならなかった。

 誤解を恐れずにいうと、騎士団長殺しは子供を持たなかった村上春樹と言う男が語る『親と子』の物語とも言えるお話だった。

 

 これは今までにはあまりなかった傾向だ。

 この時、俺は『もしや村上さん…老境に突入してしまったんじゃない…?』と思った。

 作家は老境に差し掛かると、私小説を書きたがるというのが個人的な意見だ。

 これまでの人生や、これまでの経験、思い、やるせなさを物語に落とし込むのである。

 村上さんも70過ぎだ。まだ老け込むような歳じゃない!といつぞや仰っていたが、村上ラジオを聴くと喋り方もおじいちゃんっぽくなったなぁなんて思う時がある。

 村上春樹はこれまでの世界に対する鋭い考察をなくし、その代わり芳醇な丸みを帯びた作家に代わってしまったのではなかろうか…と言う不安が脳裏をよぎる。

 別にこれは悪いことではない、事実、その丸っこさを存分に発揮したエッセイ『村上T』は近年稀に見る名作だった。

 しかし、物語となるとその丸っこさが果たしてどう影響するのか、非常に怖かった。

 正直にいうと、村上春樹の作品が面白くなかったらどうしようと思っていたのだ。

 

一人称単数を読んで

 

 そんなこんなでずーっと読んでなかったのだが、最近ようやく読んだ。

 ハッキリ言って、短編集としての面白さだけで言えば『東京奇譚集』や『神の子たちはみな躍る』に軍配が上がるだろう。

 一人称単数で紡がれた物語のほとんどは、主人公が全員村上春樹とおぼしき男であり、彼らが『ジャズ』や『ビートルズ』や『ヤクルトスワローズ』や『ピアノソナタ』に纏わる不思議な体験をするというものだった。

 つまり、これは半自伝として自分の人生を彩ってきたものたちについて書く、大作家にしか許されない私小説なのではなかろうか?というのが初めて読んだ時の感想だった。

 伸びやかに書かれた短編達は面白くないわけではないが、やはりどこか精彩に欠けていて、かつて村上春樹にあった魔法は失われてしまったように感じた…

    最後の書き下ろし、一人称単数を読むまでは。

 

・書き下ろし短編『一人称単数』

 

 一人称単数は本のために書き下ろされた短編だ。村上春樹(と思われる男)がバーに行き、見知らぬ女性に罵られるというのがこのお話の大筋だ。

 

 女性は『村上春樹の友達の友達』と名乗り『村上春樹が3年前に水辺で彼女の友達にしたおぞましい行為』について糾弾する。

 

 無論、村上春樹にしてみれば言われのない批判であり、身に覚えのない話だ。彼は席を立ち、バーを出ると世界は変わってしまっていた。

 

 そして、最後は女の『恥を知りなさい』の言葉で締められる。

 

 女性に話しかけられる前に、村上春樹はバーの大きな鏡を見ている時に、私という不確かな存在について思いを馳せる。

 そして、そのあと村上春樹は女性に私を否定されて逃げるようにバーを出るのだ。

 

 つまり、さんざん私を語り尽くしていた村上春樹は最後の最後に『私を否定』あるいは『私の不確かさに対する恐怖』の前に立ちすくむのである。

 

 これは老境に差し掛かった村上春樹が『満足げに』人生語るのではなく、私と世界に対して最後の最後まで疑問符を投げかけ続けることを意味しているのではなかろうか?

 

 この最後のお話で短編集に対する印象がガラリと変わる。つまり、私小説ではなく、自己批評の精神でもって描かれた作品なのではなかろうかということだ。

 

 そう思うと、これまでの村上春樹作品の基本構造であったメタファーを放棄するような文章がところどころ描かれていたし、本を捲ると1ページ目に描かれているレコードに針を落とす猿は村上春樹自身=品川猿とも言えなくもない。

 

 つまり、村上春樹は70にして、まだ新境地を探し続けているのではなかろうか?そう思うととてもワクワクしてくる。 

 春には彼の新作が発売される。

 こっそり買いに行こうと思う。

 誰かに見られないように。