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すべての生物が死に絶えた砂漠…『砂の女』

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先日、カートヴォネガットジュニア御大の遺作、『国のない男』を読んだ。

その中で、特に小説の書き方という項目が心に残った。

章の中で御大は物語曲線を丁寧に解説してくれる。

物語曲線とは縦軸を感情の良し悪し、横軸を時間の経過でもって表した表のことである。

この物語曲線の類型は僅か6種しかなく、この中のいくつかを御大は丁寧に教えてくれていた。

例えばドラマチックなV字型の物語、シンデレラのような階段式の物語…

 

あらかた説明を終えたあと、御大は翻って『ハムレット』について説明し始める。

ハムレットはいずれの物語曲線にも当てはめることができない。

物語は説明不足であり、不条理で、極めて唐突だ。では、シェイクスピアは構成力がなかったのか?もちろん違う。

ハムレットが描いたのは現実だった。

現実は説明不足で不条理で唐突なのである。真に優れた物語は類型(予想されるパターン)を超えるのである。

 

では、本作砂の女はどうかというと、まさにそのような不条理かつ説明不足で唐突。さらには一種のファンタジー的な要素もあるが、どこまでもどこまでも現実的なお話と言えよう。

 

・あらすじ

 

あらすじは非常に簡単だ。

昆虫採集に砂丘がある村落に来た男が、砂漠の穴中に落とされる。穴の中には家が一軒とそこに住む女。

男はあらゆる手を使って逃れようとするが、上手くいかない。そして、最後には穴の中での生活に慣れてしまい、千載一遇の逃亡のチャンスが訪れても、それに飛び付かず、自分が穴の中で見出した希望の方に目を向ける。

そして、『逃げる手立ては明日考えれば良い』と思うに至るのであった。

 

・なぜ男は穴の中の生活に慣れたのか?

 

なぜ男が穴の中の生活に慣れたのか?

それは、『己が求めた自由は、己が強いられた不自由と比べてそれほど良いものでもない』と気がついたからであろう。

 

男は作中、自由を大いに求めるのだが、自由であった『穴に落ちる前の生活』は決して幸せそうなものではない。

 

主人公は穴の中に落ちる前、学校の教師をしており、妻と共に暮らしていたのだが、その生活は決して楽しいものではない。

教師という仕事にも、同僚にも愛着が湧いておらず、更に妻とは長い間セックスレスであり、妻のことを『あいつ』と呼んでいる。

趣味の昆虫採集もどちらかと言うと楽しんでいると言うよりは現実逃避の趣すらある。

 

つまり、剥奪された自由は、実際それほど良いものでもなかった。その証拠に終盤男は穴の中から這い上がり、海を見て深呼吸するものの、『予期していたほどではない』と穴の中にまた戻ってしまうのだ。

 

・穴の中の生活

 

穴での生活は過酷そのものだ。

日々、砂をかき出さないと家は砂に押し潰される。そして砂をかき出し、1日一度訪れる村人に砂を渡さないと、配給すらたたれてしまうのだ。人間らしい生活とは言い難い。

 

しかしながら、一緒に住む女は不幸せそうどころか、男との共同生活に幸せを見出している。

長い間穴の中で生活していた女からすれば、男手が増えて生活に余裕ができ、余暇を使って内職し、ラジオや鏡を買うことを夢見ているのだ。

 

そんな人間らしくない生活を享受している女と共に生きるうちに主人公もまた穴の中の生活に順応していき、妻の前では不能だったのに、砂の中の女を激しく求めるようになる。

 

・人は砂の中にすら順応する

 

さて、この小説が言いたいことはなんだろう?そして砂とはなんだろう?

さまざまな読み解きができるが、俺はひとえに『砂とはこの世である』と思う。

 

読んでいて思ったのは、果たして砂の中の生活は人間らしい生活とは言い難い、しかし、前述した通り、地上での暮らしもまた人らしい生活とは言い難いのではないか?

 

セックスも出来ず、仕事もつまらない。つまり人生がつまらない。そしてそこから逃れる為に日々昆虫採集に勤しむ姿は、穴の中から這い出ようともがく主人公とあまり変わらない。

昆虫採集(日々からの脱出)が穴からの脱出に変わっただけなのである。

 

つまり、ある砂の中から別の砂の中に入れ替わっただけなのだ。

 

これは我々の実生活にも同じことが言えるだろう。

 

例えば、望んでいない部署に異動になった時、最初は『俺はこんな場所にいる人間ではない!』と憤るだろう。しかし、時が経ち、生活に慣れてしまえば、不平不満どころか日々の中に楽しみすら覚えるのが人というもの。

そして、いつしか本来の脱出ではなく、脱出しようとする行為そのものに意味を見出してしまうのである。

 

これは前に読んだ『熊嵐』にも似ている。

あちらは人が住めないくらいの雪山で、人々はそこを開墾し、熊に襲われてもそこに住み続け、今尚、その地域に根づき続けている。

 

そう言った、人間の強かなまでの適応能力と、その他に居座り続ける土着、つまり『生きる事の本質』を砂の女は描いているのではなかろうか?

 

※追記

 

書き忘れていたことがある。

それは、村落の住人のことである。

彼らは村を存続させるために人攫いをし、村落の住人を穴の中に住まわせ、掘り出させた砂を売っている。

これは紛れもない搾取の構図だ。

しかし、そんな村落の人々に対して、穴の中の住人たちは恨むでもなければ、恐怖しているわけでもない。ただそこにいることに『順応しているのだ』

 

これは、前述していた『居座り続ける土着』の負の側面とも言えよう。

 

茹でガエルの法則と同じで、どれだけ劣悪な環境であろうと『居座り続けてしまう』のだろう。

 

人の生きる強さ、脆さ、愚かさもまたこの小説は内包しているのではなかろうか!?

 

 

問答無用の面白さ、熊嵐

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日本史上最悪の熊事件、『三毛別熊事件』をモチーフにノンフィクションの巨匠吉村昭先生が綴った大傑作。それが熊嵐である。

 

・あらすじ

大正、北海道開拓移民の貧しい村を巨大熊が襲った。熊は計6人の村民を食い殺し、その事件は地域住民を恐怖のどん底に叩き落としたのであった!

ただちに熊狩りが行われるが、素人の男衆は熊に怯えるばかりで太刀打ちできない。そこで、白羽の矢が立ったのが、熊撃ち名人の銀四郎であった…

 

・構成

三毛別熊事件でよく取り糺されるのは、その時間の残酷さ(妊婦が赤ん坊ごと食い殺されたなど)であるが、そこら辺はさらりと描かれている。

あくまでも、事実を元にしたドキュメンタリータッチで、必要以上にドラマチックな流れにはしないし、恐怖も必要以上に煽らず淡々としている印象を受ける。

前半部で、そういった襲撃の様子や村人の熊に対する恐怖、そして、人の心などまったく解さずに人々をひたすら食いまくる熊が描かれる。

 

中盤は村人やら警察隊の熊狩りが描かれる。

ここから地域の区長が狂言回し的な役割を担い、熊の前で無力な人々、そして疑心暗鬼、自然の前で無力さに打ちひしがれる人々の様子が嫌と言うほど描かれている。

 

そして後半、銀四郎が現れ、熊を撃ち殺し、沢に熊を殺した時に吹く、熊嵐が吹き、銀四郎が荒々しく村を去って物語は終わる。

 

・あくまでも主人公は人

 

読む前はアニマルパニックモノの大傑作かと思いきや、本質はそこではないことが一読して分かる。

 

本書のテーマは、『自然と人』なのである。

 

特筆すべき点は3つ

・北海道移民の厳しい環境

・銀四郎の存在

・農民のしたたかさ

である。

 

・北海道開拓移民の厳しい環境

 

北海道開拓移民達の生活がまず冒頭に描かれている。彼らの生活たるや厳しいもので、大正という比較的近代であるにも関わらず、空腹と厳しい自然環境に苛まれている。

熊が現れなくても人が死んでしまいそうなくらいである。最初からクライマックスだ。

 

そんな自然に打ちひしがれながらも、なんとか生きてその地に根づこうとしている彼らを嘲笑うかのように熊は問答無用で人々を食い殺していく。

 

自然はどこまでいっても人には無関心なのだ。

どれだけ人が努力しようが、生きようと歯を食いしばろうが、『奪う時は全て奪っていく』

これは、10年以上前に日本中に衝撃を与えた東日本大震災にも同じことが言えよう。

どこまで行っても人は自然の前では無力なのだ。

 

しかし、無力である…完

 

とは終わらない、あくまでも人々は抵抗を続ける。その象徴が銀四郎であろう。

 

・銀四郎の存在

 

熊を前にしても超然とした態度を崩さない彼だが、終盤、実は熊に対する絶対的な恐怖心を押し殺しながら狩りをしていたことが明かされる。

 

銀四郎のキャラクターはとても面白い。

普段は手のつけられない酒乱の荒くれジジイなのだが、狩りとなれば冷静沈着で作中随一の頼もしさを見せてくれる。

前述したように、それは恐れ知らずの強気ではなく、熊の脅威を知った上で恐怖を押し殺して立ち向かっていたと言うから更にキャラクターの味わいが増す。

 

彼は狩りが終わればまた粗野な男に戻り、村人達から謝礼金をぶんどって去っていく。

 

彼は狩りの場面以外は最低な男のように見えるが、実は一番自然の法則に従って生きているようにも見える。

 

ひとりで生き、ひとりで山に入り、ひとりで戦い、殴りたい時に誰から構わず殴り、酒を飲む。

 

誰よりも野生的で、本能に忠実でいて、どこか哀愁が漂う彼は作中一番人間らしく、だからこそ、彼は自然界に生きる熊を倒せたのである。

 

乱暴者であるが、どこまでもピュアな存在とも見ることができる。

 

むしろ、自然側からすれば、村民達の方が異物なのかも知れないと思えてくる。

 

・農民のしたたかさ

 

そもそも北海道開拓移民達が住んでいる土地は本来ならば人が生きるような環境ではないと言われていた地域に住んでいるのである。

そして、あくまでも人間は後住者であり、先住民である熊のテリトリーに勝手に入ったという見方すらできる。

 

熊からすれば、人間を狩るのはある意味自然の摂理なのだろう。

しかしながら、そんな摂理を人々は許容できないし、出来るはずもない。ただちに山狩りが行われるが、この時も人同士で力を合わせて立ち向かうと言うよりは、内ゲバ的な雰囲気まで流れ出す始末である。

 

最終的には銀四郎に狩りを依頼するが、銀四郎が熊を殺せば急にビジネスライクな話を持ちかけたりもする。

 

熊嵐が吹き、その後も熊が村に現れ続け、何人かの村民は村をはなれるが、それでも、村がなくなることはなく、今でも村には人が住んでいると記され、物語は幕を閉じる。

 

村民達の姿は乱暴者の銀四郎よりもよほどしたたかで、熊よりもよっぽど生命力にとんでいるようなも思える。

 

本書は熊vs人間という単純な構図がメインではなく、熊嵐が吹こうとも、そこに根を張る人の強さこそが最も印象的ではないだろうか!?

アルケミストー夢を旅した少年ーの教訓

 

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アルケミストー夢を旅した少年ーは日本では馴染みがあまりないが、世界中で大ヒットしたベストセラーだ。

作者パウロ・コエーリョはブラジル人。2度世界中を放浪した後にアルケミストを書き上げた作家である。

 

今作は小説というよりかはどちらかというと寓話的な要素が多く、世界中を旅したパウロ・コエーリョの人生論が本書のメインである。

 

あらすじは、羊飼いの少年が廃屋の教会で宝物をピラミッドで得る夢を見て、夢を信じ、海を渡り、砂漠を超えてピラミッドを目指しながら人生の知恵を学んでいくと言うものである。

 

・夢を追うことの重要性

 

この本が言いたいことはざっくりいうと

 

『人生で本当に行うべきことをせよ』

 

に集約されていると思う。

主人公の少年は夢を見て、その夢に従い旅に出る。旅の途中、彼は大金持ちになったり愛する人を見つけ、旅を辞めようと何度もするが、決して立ち止まることなく夢に向かって歩み続けるのだ。

 

なぜならば、ピラミッドに行くことこそ、彼の本当にすべきことであり、それを放棄して安定を手にした時、人は『冒険して手に入れたかも知れないモノ』に囚われて生きるしかなくなるからだ。

 

作中出てくるクリスタル屋の主人は、人生で一度はメッカに行きたかった。しかし、彼は行かない、行かないのだ。夢を実現できるだけの財力も時間もあるのに、夢を掴むことを恐れて立ち往生し続けてしまう。

 

彼はメッカに行けたかも知れない自分によって生かされ続けていると語る。つまり、彼はメッカに行きたいが、もしも行って失望したらと思うと怖くて行けないのである。

 

このように、作中では夢に従いひた走る主人公と、夢を諦めたり夢を信じないモノ達との対比が前半では描かれ、更に後半では、主人公が旅の果てに愛についての哲学を理解するパートに分かれている。

 

・夢と現実の物語

 

非常に寓話じみた話なのだが、その構成を紐解くとなかなか面白い。

 

主人公、夢を教会で見る

夢を信じて旅に出る

ピラミッドで宝はピラミッドではなく、教会にあると知る

主人公は冒頭の教会で宝を手にする。

 

 つまり、彼は夢(精神世界)を旅することにより精神的成長を遂げ、冒頭ではなんの変哲もなかった教会(現実)が、ラストでは宝物のありかになっているのだ。

 

 これは幸せな青い鳥とよく似ている。

 

 我々は現実を豊かにする為に安定やお金を手にしたいと強く願う。しかし、本当に現実を豊かにするのは、自分が何をすべきか、つまり、自分の夢に従い日々生きることこそが、日常を金に変える錬金術だよ、とこの本は言いたいのではなかろうか?

存在の耐えられない軽さにおける愛とは?

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先日、この存在の耐えられない軽さを読了した。なにやら20世紀最高の恋愛小説と言われているらしく、てっきり『ノッティングヒルの恋人』的なラブコメを想像していたがいい意味で裏切られた。

 

これは恋愛小説というよりも、愛についての哲学的な問いかけなのである。

 

・冒頭作者によって語られる命題

 

重要な命題は冒頭作者によって語られる。

つまり、ニーチェの永劫回帰とパルメニテーゼの軽さと重さの問いかけである。

ニーチェは我々が永遠に同じことを繰り返していると言う永劫回帰という説を解いた。

その為に我々は「永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある」と作者は言っている。

では重さは悪いことなのだろうか?

パルメニテーゼはこう言っている。『軽さが肯定的で、重さが否定的』

 

と、ここまで書いても、難しすぎてピンとこない。そこで個人的にかなりざっくりとした解釈で読み進めていくことにした。

つまるところ、この小説の命題をざっくり要約すると…

 

『人生は重い荷物を背負った方が良いのか?軽い方が良いのか?そしてそれらをもたらすのは偶然なのか?それとも運命なのか?』

 

ということではないだろうか?

 

・あらすじ(主人公トマーシュが背負う重さ)

 

命題が提示された後、物語は始まる。

この話は特定の恋人は作るつもりがなかったプレイボーイの外科医トマーシュは、さまざまな偶然の重なりにより、テレザという女性と結婚、つまりは重荷を背負うことになるのだ。

 

彼女との出会い、そして彼女を強く愛してしまうことは全くの予想外であったトマーシュ。

 

結婚してからも軽さを求めて、異常なまでにさまざまな女性と逢瀬を重ねていく。

 

そんな折に、物語の舞台チェコで『プラハの春』が起こりソ連がチェコに介入。トマーシュとテレザは海外に亡命するが、テレザはトマーシュとの生活に疲れ、1人チェコに帰国してしまう。

 

居なくなって初めて彼女の大切さに気がついたトマーシュはテレザを追いかけてチェコへと帰る。その際、彼はベートーベンのとある詩を胸に思い浮かべる。

 

それは『そうでなければならない!』

 

彼はプラハに戻り、またしても重さを背負うことになるのだ。

 

プラハに戻ったはいいものの、トマーシュは運命の悪戯で外科医と言う職を失い、窓拭きにまで身を落とす。テレザも生活に疲れ、2人は田舎に引っ越すことを決める。

 

田舎で2人の愛犬カレーニンが死ぬなど悲しい出来事が起きるが、田舎で穏やかに暮らすことになるが、最後は唐突な事故で死ぬことが暗示されつつ物語は幕を下ろす。

 

・全ては、『そうでなければならない!』そしてその先にあった安らぎ。

 

以上がざっくりとした物語のあらすじであるが、この物語がなにを言いたいかと言うと、

 

『我々は重さも軽さも選択などできず、全ては必然』

 

と言うことではないだろうか?

トマーシュは飄々と生きていたかったが、テレザと運命的に出会ってしまった。

それは望むと望まざるに関わらず必然だったのだ。そして、ほとんど抵抗すら出来ずに重さを背負うことになる。

この不可抗力を雄弁に語る一言が、そうでなければならない!なのである。

 

つまり、愛や恋(重さ)とはコントロール不可能なものであり、不可避の運命なのだ。事故と一緒で『背負うときは背負う』もの。

 

とは言え、愛が『不可避の現象』であったからといってそれで踏ん切りがつくほど人は単純ではない。

 

テレザもトマーシュも結婚したことに散々思い悩み、2人は時に傷つけ合い、時に思いやりながら、『この人は私と出会わなければもっと良い人生を送っていたのでは?』という考えを胸に秘めている。

 

物語の終盤、2人はお互いがお互いに『この人は私と出会わなければ〜』と思っていたことを知り、すっと心の中の重さが消え、2人の心に平穏が訪れるのである。

 

そんな2人とは対照的に描かれるのが、サビナである。彼女はトマーシュの数多い愛人の一人。彼女は軽さを求めて、家族を作ることなく、人生の最後まで軽さを選択し続けた様が描かれる。

 

・普遍的な愛をめぐる話。

 

ここまで劇的なドラマはないが、この小説のお話は俺たちの生活にも起こりうることだ。

 

例えば、好きでもない女の子となぜか付き合ってしまったり、パートナーに対する責任感から相手のことが煩わしくなったり、そんな時、我々は『どうして付き合ってしまったんだろう?』『彼女は彼は私がいない方が幸せなんじゃないか?』なんて考える。

 

しかし、全ての出来事は、そうでなければならない!なのである。

我々はトマーシュとテレザのように思い悩み苦しみ、必然に振り回され続ける運命なのである。

 

一方、そういったシガラミを避けることを選んだサビナは、トマーシュとテレザの死を知ったとき、自分の身に『存在の耐えられない軽さ』が襲ったことを悟るのだ。

 

つまるところ、軽さを選んでもまた運命に翻弄されると言う点では同じなのである。

 

小説の中で『重さと軽さ』どちらが良いか回答は明示されない。

だからこそ、読了した後に深い余韻を残すのだ。

 

めちゃくちゃ難しい小説で一読しただけでは整理できていない部分が多々あると会うので、また何か気がついたことがあれば今後も追加していきたい。

1984年の希望

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 あらすじは知っているけれど、読んだことはない本の代名詞(と訳者あとがきに書かれている)1984年を読了。

 

 80年近く前に書かれた本ながら、その内容たるやいつの世にも通じる普遍的恐怖に彩られており、時代を場所を超えて多くの人に今なお読まれている名著中の名著である。

 日本では2009年に発売された村上春樹の1Q84の元ネタとして注目されたことを覚えている人も多いだろう。

 

 軽ーくあらすじを説明すると、独裁主義国家に産まれた主人公。彼はひょんなことから自由意志に目覚めてしまい、同じく党の監視の目を逃れて青春を謳歌せんとする女性と出会い、恋に落ち、しかし秘密警察によって捕まった後、最後はズタズタに拷問されたのちに精神を破壊されて、党への忠誠を誓うようになる。

 

 これが大まかなあらすじである。

 いち小市民である主人公が自由に目覚め、愛を知り、党の監視に怯えながらも女性との確かな絆を育む前半部は、ロマンスとサスペンスが合わさった物語りであり、いち市民である主人公が党からの抑圧に反抗しようとする様に否応なく感情移入してしまう。

 

 だからこそ、後半部、徹底的な拷問により全てを剥ぎ取られていく痛々しい様子が映えるわけである。

 最後、主人公は拷問の後、愛も自由も思考も全てを奪い取られ、ただのアル中愛国者オヤジに変えられてしまう。

 

 恐ろしいことに党は主人公のことを殺さないのだ。普通、バッドエンドでも『拷問の果てに身も心もズタズタにされて、処刑台に立たされる主人公。しかし、どんな暴力も心の中の純粋な一欠片の愛は奪うことは出来なかった!主人公は銃殺される一瞬の中にジュリア(ヒロイン)への永遠の愛を見出した!!fin』

 とかならまだ救いはあるのだが、党は主人公をボコボコにした後、解放するのだ。

 もう監視も何もないのに、主人公は無気力で瑞々しい愛を思い出すことはおろか、家族との暖かな思い出すらも自分には必要ないと否定するまでになり、彼が心を揺り動かすのは党の嘘か本当かも分からない大本営発表のみである。

 

 村上龍の大傑作『愛と幻想のファシズム』で『本当に恐ろしいのは愛する人が死ぬことではなく、愛する人が狂うこと』と言った趣旨のセリフが出てくるが、まさに死よりも恐ろしいことが主人公の身に起こったのである。

 

 さて、俺が読んだ小説の帯には『この本が現実になりそうです』と書かれていた。

 これは少しズレたコピーだな、と思う。

 なぜならば有史以来、権力者によって監視や歴史の改変が行われてこなかったことはないのである。

 

 日本史だって『古事記』から『太平記』なんかも全て『戦いに勝った側』によって書かれているわけで、中立的な立場で書かれたとは言い難いだろう。

 権力者によって秘匿されてしまった事実がないとは言い切ることは決してできないわけだ。

 もっと分かりやすいところで言うと、中世の魔女狩りやホロコーストなんかも権力者により事実が歪に捻じ曲げられ、多くの人々が理不尽に殺されたのは周知の事実である。

 民衆が権力に酔いしれて熱狂する様子は第二次世界大戦中のドイツや日本はもちろん、アメリカやら世界中の国々の当時の様子を見れば明らかである。

 

 つまり、何が言いたいかというと、

 この本が現実になり得るというよりも、常に世界は1984年を行ったりきたりしているだけなのである。

 今、我々が生きている時代が偶然『民主的』であっただけの話だ。そしてそれが終わろうとしているのかもしれない…と言うだけの話なのである。

 

 しかしながら、この本はディストピアを暗示しながらも、ディストピアが永遠に続かないことも示唆している。

 巻末の『付録・ニュースピークの諸原理』は作中作であり、かつての独裁を過去形で振り返る形で結ばれている。

 つまるところ、党は打破されたのである。

 諸行無常、全ての物事には必ず終わりがある。それは徹底的なまでの権力を手にしていた『ビックブラザー』にも言えることだ。

 この巻末の付録はともすれば読み飛ばしてしまう方も多く居ると思う。短いページ数ながらも内容は決して分かり易いとは言い難いからだ。しかしながら、その中には微かながらも希望が描かれている。

 

 1984年は権力による暴力や監視、洗脳の恐ろしさを描いている。しかしながら同時に僅かながらも希望が常に隠されていることも語っている。

 

 我々は今のような不安定でいつ戦争が起きるか分からない、100年近く続いた平和な世界が終わるかもしれない、そんな世の中を生きている。

 そして、こんな世界を生きる上で最も重要なことは、微かながらも確実にある希望をなんとか見つけることなのではなかろうか。

 

消えたバナナ

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俺は毎朝バナナを1本食べて仕事に行く。

ほんのりと腹が満たされて、そしてそこはかとない空腹感を抱えながら職場まで行くのがルーティーンなのだ。

 

しかし、最近、バナナが完全に売り切れていやがる。

 

一体なぜなのか、1週間くらいずっと補充されない。バナナ。

俺は朝何を食べればいいのだろうか…

この1週間はお菓子とか、白米とかで朝をしのいできたが、そろそろ限界だ。俺にバナナを食べさせろ!!!

遺言と言う名の書き置き

 不穏なタイトルだが、一切自ら死ぬつもりはないので安心して欲しい。

 むしろ、強く生きたいと願っている。

 

 

 今、とてもとても長い(と言っても文庫本一冊くらい)小説を書いている。しかもワードとかじゃなく手書きで!(手書きの後清書するつもり)

 面白いかどうかは分からないが、とにかく毎日毎日書いているのだ。

 面白いかどうかは分からないが、作業自体はとても楽しいし、出来上がるのが楽しみ。

 恐らく、第一校の完成は6月頃になる予定。

 

 楽しいから故に、恐れていることがある。それこそが『死』!!!

 ここまで書いてんだから、絶対に完成させたい。でも、俺の不慮の死により未完で終わる可能性がとてもとても低い可能性ではあるが、存在していることがとても怖い。

 

 なので、完成前に俺が死んだ場合はどうかどうか誰かに完成まで書いて欲しい。

 

 最後はハッピーエンドで終わる予定だ

 

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