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すべての生物が死に絶えた砂漠…『砂の女』

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先日、カートヴォネガットジュニア御大の遺作、『国のない男』を読んだ。

その中で、特に小説の書き方という項目が心に残った。

章の中で御大は物語曲線を丁寧に解説してくれる。

物語曲線とは縦軸を感情の良し悪し、横軸を時間の経過でもって表した表のことである。

この物語曲線の類型は僅か6種しかなく、この中のいくつかを御大は丁寧に教えてくれていた。

例えばドラマチックなV字型の物語、シンデレラのような階段式の物語…

 

あらかた説明を終えたあと、御大は翻って『ハムレット』について説明し始める。

ハムレットはいずれの物語曲線にも当てはめることができない。

物語は説明不足であり、不条理で、極めて唐突だ。では、シェイクスピアは構成力がなかったのか?もちろん違う。

ハムレットが描いたのは現実だった。

現実は説明不足で不条理で唐突なのである。真に優れた物語は類型(予想されるパターン)を超えるのである。

 

では、本作砂の女はどうかというと、まさにそのような不条理かつ説明不足で唐突。さらには一種のファンタジー的な要素もあるが、どこまでもどこまでも現実的なお話と言えよう。

 

・あらすじ

 

あらすじは非常に簡単だ。

昆虫採集に砂丘がある村落に来た男が、砂漠の穴中に落とされる。穴の中には家が一軒とそこに住む女。

男はあらゆる手を使って逃れようとするが、上手くいかない。そして、最後には穴の中での生活に慣れてしまい、千載一遇の逃亡のチャンスが訪れても、それに飛び付かず、自分が穴の中で見出した希望の方に目を向ける。

そして、『逃げる手立ては明日考えれば良い』と思うに至るのであった。

 

・なぜ男は穴の中の生活に慣れたのか?

 

なぜ男が穴の中の生活に慣れたのか?

それは、『己が求めた自由は、己が強いられた不自由と比べてそれほど良いものでもない』と気がついたからであろう。

 

男は作中、自由を大いに求めるのだが、自由であった『穴に落ちる前の生活』は決して幸せそうなものではない。

 

主人公は穴の中に落ちる前、学校の教師をしており、妻と共に暮らしていたのだが、その生活は決して楽しいものではない。

教師という仕事にも、同僚にも愛着が湧いておらず、更に妻とは長い間セックスレスであり、妻のことを『あいつ』と呼んでいる。

趣味の昆虫採集もどちらかと言うと楽しんでいると言うよりは現実逃避の趣すらある。

 

つまり、剥奪された自由は、実際それほど良いものでもなかった。その証拠に終盤男は穴の中から這い上がり、海を見て深呼吸するものの、『予期していたほどではない』と穴の中にまた戻ってしまうのだ。

 

・穴の中の生活

 

穴での生活は過酷そのものだ。

日々、砂をかき出さないと家は砂に押し潰される。そして砂をかき出し、1日一度訪れる村人に砂を渡さないと、配給すらたたれてしまうのだ。人間らしい生活とは言い難い。

 

しかしながら、一緒に住む女は不幸せそうどころか、男との共同生活に幸せを見出している。

長い間穴の中で生活していた女からすれば、男手が増えて生活に余裕ができ、余暇を使って内職し、ラジオや鏡を買うことを夢見ているのだ。

 

そんな人間らしくない生活を享受している女と共に生きるうちに主人公もまた穴の中の生活に順応していき、妻の前では不能だったのに、砂の中の女を激しく求めるようになる。

 

・人は砂の中にすら順応する

 

さて、この小説が言いたいことはなんだろう?そして砂とはなんだろう?

さまざまな読み解きができるが、俺はひとえに『砂とはこの世である』と思う。

 

読んでいて思ったのは、果たして砂の中の生活は人間らしい生活とは言い難い、しかし、前述した通り、地上での暮らしもまた人らしい生活とは言い難いのではないか?

 

セックスも出来ず、仕事もつまらない。つまり人生がつまらない。そしてそこから逃れる為に日々昆虫採集に勤しむ姿は、穴の中から這い出ようともがく主人公とあまり変わらない。

昆虫採集(日々からの脱出)が穴からの脱出に変わっただけなのである。

 

つまり、ある砂の中から別の砂の中に入れ替わっただけなのだ。

 

これは我々の実生活にも同じことが言えるだろう。

 

例えば、望んでいない部署に異動になった時、最初は『俺はこんな場所にいる人間ではない!』と憤るだろう。しかし、時が経ち、生活に慣れてしまえば、不平不満どころか日々の中に楽しみすら覚えるのが人というもの。

そして、いつしか本来の脱出ではなく、脱出しようとする行為そのものに意味を見出してしまうのである。

 

これは前に読んだ『熊嵐』にも似ている。

あちらは人が住めないくらいの雪山で、人々はそこを開墾し、熊に襲われてもそこに住み続け、今尚、その地域に根づき続けている。

 

そう言った、人間の強かなまでの適応能力と、その他に居座り続ける土着、つまり『生きる事の本質』を砂の女は描いているのではなかろうか?

 

※追記

 

書き忘れていたことがある。

それは、村落の住人のことである。

彼らは村を存続させるために人攫いをし、村落の住人を穴の中に住まわせ、掘り出させた砂を売っている。

これは紛れもない搾取の構図だ。

しかし、そんな村落の人々に対して、穴の中の住人たちは恨むでもなければ、恐怖しているわけでもない。ただそこにいることに『順応しているのだ』

 

これは、前述していた『居座り続ける土着』の負の側面とも言えよう。

 

茹でガエルの法則と同じで、どれだけ劣悪な環境であろうと『居座り続けてしまう』のだろう。

 

人の生きる強さ、脆さ、愚かさもまたこの小説は内包しているのではなかろうか!?