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大人になるとは『人間失格』

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 人間失格を始めて読んだ時、ほとんどの青年が感じるように俺も「ああ、これは俺のことだ」と感じたのは高校生の頃。

 

 人間失格は太宰治の代表作であり、一言で言うと心の弱い男が酒と女と酒に溺れてしまうお話である。

 

 ひどい話だ。だが、なぜだろう、とても分かるのだ。主人公大庭葉蔵の心の揺れ動き、繊細すぎるほど傷つきやすい心に痛く感銘を受けたのをよく覚えている。

 

 さて、それから10年経ち、今読むとまったく感動しない。それどころか腹立ってきた。

 俺は読むのが早いほうなのだが、それでもたっぷり2週間使わなければならなかった。

 大庭葉蔵の心の弱さがなんとも哀れで、さらに言えばその被害者意識や自意識過剰が鼻についてしかたなかった。

 

 働いて酒をたてば全て解決といったところだろうよ…と思う。

 俺自身、ひどい状況に追い詰められ、入院とまではいかなかったが、それでも地獄に近い精神状態になったことはある。俺はなんとかそこから真人間へと戻って来れた。

 しかし、この大庭葉蔵は自ら進んで地獄へと行く。それは歪んだ自己愛に他ならない。

 甘ったれるなと言いたい。

 世の中地獄が当たり前。それでも、なお、人は生きていくのである。

 

 

ありふれたカタストロフ『ボッコちゃん』

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たった数ページで完結するショートショートの巨人星新一の自選短編集が『ボッコちゃん』であり、数ある星新一の作品の中でも最高傑作の呼び声が高い。

 

学生時代に一読したことがあり、その時は『星新一のショーショートは読みやすいし、面白いし最高や!』と思ったのを覚えている。

 

大人になった今読み返すとなかなか印象が違う。

 

言い切り型の歯切れの良い文章、簡潔かつテンポの良い展開などは勝手知ったるモノだったが、その内容に驚かされた。

 

表題作ボッコちゃんを含め、かなり多くの作品が登場人物の『死』で終わるのだ。

それ以外にも『犯罪』などエキセントリックな内容が多く、流し読みすれば子供向けのSFだが、その実、かなり血生臭い内容となっている。

 

これはひとえに、死こそ最上のエンターテイメント、つまり、人生に起こる最大のカタストロフな訳であり、その一瞬を切り取ることで、数ページながらも満足感のある余韻をこの短編集は担保しているのではなかろうか?

 

一番印象的な話は、最後に収録された

『最後の地球人』だ。

少子化によって滅亡する人類、そして、最後に残された一組の男女はアダムとイブとなり、2人が産んだ子供は『神』となり、創造主として地球を再び再建していくであらう予感を漂わせて物語は終わる。

 

このお話はカタストロフがいきつき『人類の終わり』という最大の滅亡、更に言えば、結構起こりうるであろう最後まで、行き着くところまで行ってしまう作品である。

 

しかし、滅亡で終わることなく、最後に残された子供が、地球を再建していく予感は、仏教やヒンドゥー教の世界観を思い出させる。

 

つまり、輪廻であり、創造と破壊の表裏一体である。

 

星新一はこの本を作るために、数多くのカタストロフ(破壊)を行った。

まさに、この本を代表する1作と言えよう。

緩やかなグレー『チルドレン』

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チルドレンは2004年に発売された伊坂幸太郎の短編連作である。

大人気作家伊坂幸太郎の初期作品として人気のこの本の感想を今回は書いていこうと思う。

 

・あらすじ

 

ギターを愛する風変わりな青年陣内を中心に巻き起こる5つの不思議な事件を描く本作

 

・『バンク』

陣内とその友人鴨居は銀行強盗に遭遇し、人質として捕えられる。そこで出会ったのが、同じく人質にされていた盲目の青年永瀬とその盲導犬ベス。永瀬は銀行強盗の様子がおかしいと言うのだが…

 

・『チルドレン』

バンクから13年後、家裁の調査官となった陣内とその後輩武藤はおかしな親子と出会う。そして起こる誘拐事件。その真相は…

 

・『レトリーバー』

永瀬の恋人、優子が過去を思い出す形で語られる本作。思い人に振られた陣内は公園に永瀬と優子を置いてどこかへ消えてしまう。数時間後、帰ってきた陣内は『世界が止まってしまった』と騒ぎ出す。

 

・『チルドレンⅡ』

チルドレンから1年後を描く。今度は離婚を担当することになった武藤はプレイボーイな大学教授と、そのヒステリックな妻に頭を悩ます。

そして、その頃、陣内はとある青年を担当しており…

 

・『イン』

再び過去に戻り、永瀬の視点からデパートの屋上で陣内の巻き起こす『ケジメ』の顛末が語られる。

 

・絶妙に続きが読めない面白さ

 

久しぶりに伊坂幸太郎作品を読んだけれど、やっぱり面白い。最初は陣内のキャラが鼻についたが、読み進めていくうちに謎が謎を呼ぶ展開に引き込まれた。

 

誰かが言っていたが、物語の基本はwhyの連続。話を進めてbecauseを小出しにして、読書を引き込むのが鉄則だそうだ。

 

伊坂幸太郎ほどこのwhyが巧みな人もそういないのではなかろうか?

続きが気になり、読み進め、事件の真相を予想するのだが、結末が毎回絶妙に読めないナナメ上な終わり方をする。

これにカタルシスを感じ、一気に読み終えてしまった。

 

・緩やかなグレー

 

本作で気になったのは、一作一作は計算された緻密な作りをしているのに、連作として見たとき、そのつながりは非常に曖昧であることだ。

 

表題のチルドレンが表す通り、この連作は子供たちをテーマにして描かれている。

 

本作に出てくる子供たち軽犯罪に手を染めている者が多く、さらに罪悪感の意識も低い。

そんな彼らを陣内は作中、

 

「子供のことを英語でチャイルドというけれど、複数形になるとチャイルズじゃなくて、チルドレンだろ?別物になるんだろ」

 

さて、ではそんな彼らがなぜ犯罪に手を染めるのかと言うと、それは親との問題である場合がほとんどだ。

主人公、陣内も高圧的でありながら買春をしていた父親にひどく落胆し、ひどく捻じ曲がった人物になっている。(その為か彼自身は大人になり、子供に寄り添う家裁の道を選ぶことになった)

 

では、そんな親と子供。子供の犯罪について、この連作は何かしらの答えを出すのかというと、そう言う説教臭さは一切ない。

 

罪を犯した子供は最低ではないし、だからと言って実はいいやつでもない、ただ、見放すこともしない。

 

そう言う絶妙な立ち位置で子供達を見つめる本作はある意味とても現実的であり、白黒つけない穏やかなグレーと言ったところだろう。

 

テーゼに対して敢えて答えを突きつけないこの小説はどこか優しい。

作品同士の繋がりが緩やかなところも一役かっているし、ラストの『イン』の終わり方も劇的でもなく、ただ日々がこの後も続いていく予感を感じさせて終わる。

ハリウッドのサスペンス映画というよりは、穏やかな写実的な作風といったところであり、どこまでも現実的な作品だった。

まさに初期の傑作と言える!

 

 

 

ニートの哀歌 「変身」

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カフカの変身は長年名作として愛されているわけであるが、その解釈の仕方はかなり多様で現在に至るまでこれ!と言うものがない。

 

あらすじは、ある日セールスマンのグレーゴルザムザくんが虫になってしまい、家族から酷い扱いを受けて最後には死んでしまうと言う不条理短編である。

 

出版された年や、カフカがドイツ人であることなどから、これは手足を失った傷病軍人のメタファーではあるまいか?という説が一般的である。

しかしながら、カフカはこの小説を友人に読み聞かせる時、思わず笑い出してしまい上手く読めなかったという逸話が残っている。

つまり、カフカにとってこの小説はある種のギャグだったのだ。

そうなってくると、この傷病軍人説は的外れなのではなかろうか?という気もしてくる。

傷病軍人という、戦争が生み出した悲劇をカフカが笑い話にするとは到底思えないからである。

 

・ニートの物語

 

ここでカフカ自身が残した変身に関する覚書を紹介したい。

 

・副題は息子達にしたかった

・これは一部自伝的要素もある。

 

明言はされていないが、以上のようなことを彼は覚書として残している。

以上のことや、物語から察するに、俺はこの物語をニートの哀歌であると結論づけたい。

 

グレーゴルは家族の為に嫌々仕事をし続けている青年。家族はグレーゴルに養われて生きており、物語の冒頭では家族の中で労働をしているのはザムザ1人だけである。

家族はある種、ザムザの寄生虫でもあったのだ。

そして、家族はこのような生活が永遠に続くと思っていたが、とうのザムザは数年して、家族の借金をあらかた返終わったら、すぐさま仕事を辞めようと思っていたのである。

 

以上のことから、ザムザは自由を欲していたが、家族によって抑圧されていた状態であったと考えられる。

 

そして、彼はある日虫になってしまうのだ。

虫になった彼は、朝起きれず、仕事には行けず、部屋の中を這い回ることしかできない。これは鬱症状に近いものだとも言える。

 

つまり、虫=精神的に病んで働けなくなったニート、であると俺は思う。

 

面白いのは、虫になったザムザの死因が父親の投げたリンゴが彼の背中にめり込んでしまうところだろう。

 

家族を養ってきたザムザが、自らを抑圧していた家長である父に、食べ物と言う「養う」ことの象徴的なもので殺されるのだ。

 

真実の美しさは消えない『博士の愛した数式』

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恥ずかしながら読み終わった後、しばらく呆然とするほど感動した。

『博士の愛した数式』は記憶が80分しか持たない元数学者とその家政婦である私と息子のルートの暖かな交流を描いた名作である。

 

家政婦として私が派遣されたのは、記憶が80分しか持たない数学者の老人。

いつも数学雑誌の懸賞問題に取り組んでおり、気難しく数学以外には興味を示さない博士。

そんな博士に戸惑っていた私だが、息子のことを口にしたところから博士の様子がガラリと変わる。

 

博士は『子供を置いて私のところに料理を作りにくるなどもってのほか、明日からは子供を連れてきなさい』と言う。

 

明日になればもちろん言ったことも忘れてしまうのだが、博士はやってきた息子をこれ以上ないほど暖かく出迎える。

気難しさはどこかに消え去り、幼きものを守る庇護者として息子を存分に可愛がるのだ。

そして、息子の人よりも平らな頭を撫で、数学記号の√(ルート)と名づける。

『どんな数字でも寛容に匿ってやる実に寛大な記号』という言葉を添えて。

 

それから3人の交流が始まる。

 

私は博士から時折聞かせてもらう数学の話に夢中になる。数学の公式にある不可侵の変え難い真実の美しさに魅了されるのだ。

 

この物語のキモは当然、博士が80分で記憶がなくなってしまうところにある。

どんなに素晴らしい1日を3人で過ごしても博士は一晩経てば忘れてしまうのだ。

しかし、それがどれほど重要だと言うのだろうか?

ルートも私も博士に対する親愛の念はまったく変わらないし、博士も2人のことを忘れてしまうのだが、会うたびにルートを抱きしめ、私に数学の美しさを説く。

最も重要なことは、記憶がなくなってしまった程度ではなくなりはしないのである。

それは数字が導き出す不可侵の法則が決して犯されないのと同じように。

 

・うがった見方をするならば…

 

うがった見方をするならば、この小説は作者である小川先生のストーリーテリングと文章力の高い技術が随所に見られる、まさに計算された作品とも言えよう。

 

まず、気難しい博士が子供に対しては慈愛に溢れた態度を取る姿は、脚本の基本的な技術『セイブザキャット』に則った手法とも言えるし、中盤、博士の家政婦をクビになる展開は、物語曲線の感動型における、中盤の急降下に当たる箇所だ。

 

これらにより、読者はキャラクターに親しみを覚えると共に、一見緩やかなストーリーの中に緩急が生まれて目が離せなくなるのである。

 

また、博士を見守る母屋の未亡人の使い所も巧みだ。

博士が記憶障害になる前、2人は恋仲だったことが作中の後半明らかになる。

義理の姉と義理の弟だった2人の恋は単純なものではなく、そこには入り組んだ複雑な物語があったであろうことは容易に想像できる。

しかし、そこで2人の過去や関係を明かすことを最後までしない。

そうすることにより、我々は2人の関係性を無限に空想させられてしまうのだ。(国境の南、太陽の西で記したミロのビーナス理論である!)

 

カート・ヴォネガット御大は『計算を超えた真実の物語』の重要性を自らの本で語っていたが、しかし、計算し、それをあたかも真実のように見せることこそ、小説家の腕の見せ所ではなかろうか?

 

そう言った意味では、この小説は素晴らしく優れた一片の公式ともいえよう。

それはeπi+1=0と同じく、複雑さにたった1を足すと、美しい0が現れるような…

自己不全を抱く男の地獄めぐり、『国境の南、太陽の西』

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ときどき物語の説明なんてものはしない方がいいように思う。言葉に意味を見出そうとしたとき、それまで無限にあった解釈がたったひとつの陳腐なものに変わってしまう気がするからだ。

 

ミロのヴィーナスの手は失われたからこそ、無限の美しさを手に入れたのである。

村上春樹の小説はそういう類のものだと思う。

 

しかしながら、まあ、自分なりに分かりやすく小説について思ったことを書くのも読書の楽しみというもの!

今回は『国境の南、太陽の西』についてつらつらと書き連ねていきたいと思う。

 

・国境の南、太陽の西のあらすじ

 

・主人公のハジメは1951年生まれ。

・一人っ子であることにコンプレックスを抱いていた。(当時は兄弟姉妹がいる家庭がほとんどだったからである)

・小学生の頃、足の悪い少女『島本さん』と恋に落ちるが中学に上がると疎遠になる。

・高校でイズミと言う少女と付き合うがハジメの浮気が原因で別れる。

・社会人になって10年目のとき、有紀子と出会い結婚する。

・有紀子の父は不動産会社の社長でハジメにビルのテナントを貸してバーをするよう勧め、ハジメはバー経営を初めて最高する。

・全てが順調であるが、全て借り物のような人生だと、幼少期の頃と変わらぬ自己不全感を抱くハジメの元に島本さんが再び現れる。

・島本さんは自分の現状については一切明かすことなく、ハジメとの交友を再び深めていく。

・ハジメは全てを捨てて島本さんと結ばれようとするも、島本さんはハジメの元から姿を消す。

・ハジメは抜け殻のようになったイズミと再会する。

・ハジメは有紀子と再び生きていくことを決意する。

 

これが超大まかなプロットである。

 

・国境の南、太陽の西とは一体なんだろう?

 

さて、タイトルの国境の南、太陽の西とは一体なんなのだろうか?

 

国境の南とは、ナットキングコールが歌う洋楽のことであり、ハジメが島本さんの家で繰り返し聞いていた曲のことである。

国境の南には素晴らしいところがあると小学生の頃の2人は思っていたが、大人になって歌詞を見たとき、メキシコを歌った歌だと知りガッカリする。

 

太陽の西とはヒステリア・シベリアナ(造語)を指す。シベリアの農夫がかかる病気であるとき、自分の中の何かが損なわれ、飲まず食わずで西に死ぬまで歩き続ける病気である。

 

つまり、これは言い換えれば、国境の南=幻想、太陽の西=死(もしくは絶望)とも言い換えれる。

 

『国境の南、太陽の西』とは『幻想、死』であると俺は思った。

 

・自己不全感と国境の南。

 

ハジメは幼少期から自分の中の何かが欠けているような自己不全感を持っていた。

そして、それを埋めてくれる存在(幻想)を探し求めており、それに当たるのが島本さんである。

 

※ちなみに、この自分のペルソナや自己不全感といったテーマは村上春樹の作品でよく見られる。(世界の終わりとハードボイルドワンダーランドなど)

 

作中、ハジメは島本さんを激しく求めるが、果たして国境の南を超えることができたかと言うと、そうではなく、彼はむしろ太陽の西に近づいていたのであった。

 

・太陽の西と方位

 

作中の終盤、ハジメはいつもバーに高級なスーツに身を包んでいくのに、その日はラフな格好で出向いた。

ルーティーンが崩れたくらいで何かが損なわれるわけはないと、しかし、彼はその結果さまざまなものを損なうことになる。

 

ハジメは島本さんとバーで会い、そのまま自身が持つ箱根の別荘に向かう。

向かう途中の高速道路で島本さんはハジメに『そのハンドルに手を伸ばしてグッと回したくなるの』と告げる。

2人は別荘で初めて結ばれ、ハジメは全てを捨てる覚悟をするが、朝起きると島本さんはどこにもいなかった。

彼女はハジメの元から完全に姿を消したのであった。

 

そして、ハジメは島本さんの『そのハンドル〜』と言う言葉が本心からで、ハジメと共に自殺しようとしていたことを悟る。

 

ハジメにとって島本さんと言う存在は(幻想)であったが、島本さん自身は(死)を望んでいたということになる。

つまり、対立軸にあると思われていた国境の南と太陽の西はイコールで結ばれる存在でもあることが提示される。これは一体どう言うことだろうか?

 

これは、単純に方位の問題であると思う。

 

ハジメは自己不全感を抱え、激しく島本さんを求めているが、その姿は客観的に見ると非常に傲慢で自分勝手である。

島本さんと言う幻想を追うあまり、妻である有紀子が死を考えるほど深く悩んでいることにすら気がついていなかったことが最終盤に明かされる。

 

つまり、『私』と言う存在を構成するのは他者であり、『私』が国境の南(幻想)と太陽の西(死)を持っているように、『他者』もまた国境の南(幻想)と太陽の西(死)を持っている。

 

と言う、至極当たり前の、一言でいうと『思いやり』というコンパスを持っていなかったが為に、他人がどこにいるのか(何を考えているのか)理解できなかったと俺は思う。

 

・中間から、国境の南へ

 

その為に島本さんはハジメの元を去り、永遠に損なわれてしまった。

考察で、島本さんは『幽霊だった』という説がかなり多いが、俺自身は『損なわれてしまった』以上の意味をそこに見出そうとするのは無意味だと思う。

島本さんは死んだわけでも、死んでいたわけでもなく、ただ完全にハジメを取り巻く他者な中から姿を完全に消し去ってしまったのだろう。

 

それ故にハジメは全てのつながりから見放されて孤独になったように感じ、島本さんが言うところの『中間』、つまりどこにも行けない状況に追い込まれる。

 

そして、イズミと再会するのだが、イズミはその時、完全に太陽の西(死、もしくは絶望)に行ってしまっていた。

イズミは表情がなく、ただハジメを見つめ続けるだけだった。これはハジメの浮気が原因でこうなったと言うよりかは、彼女が高校以降歩んできた人生がそうさせたと言う方が正解だと思う。

 

そしてイズミを見たおかげで、ハジメの中の幻想は完全に消え去り、有紀子とよりを戻すことを決意する。

その時、有紀子はハジメに『あなたは何も尋ねなかった』と詰問するが、ここもハジメの身勝手さを象徴するセリフだろう。

 

そしてハジメは今度は自分自身が幻想(太陽の南)となり、誰かを守りたいと願うのだった。

 

・感想

 

大昔に一度読んでて、記憶の中では『不倫の話だよなあー』くらいしか覚えてなかったが、再読すると、身勝手な男の地獄めぐりのようなお話だったことに気がつく。

ウダウダ語ってきたが、結局、『ウジウジしていた男がほんの少し成長する』というオーソドックスなお話ではある。

 

トラウマ漫画『ライチ☆光クラブ』を読む

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前日岩盤浴に行った折に、ライチ☆光クラブを読んだ。

 

帝一の國と同じ作者ということで、『外連味のあるギャグ漫画』なんだろうなぁー!と思って読み始めたのだが、

 

冒頭で女性が腸引き摺り出されて殺されるのを見て、ギャグじゃねえじゃん!!!と憤慨しました。

 

お話は『独裁に憧れる中学生とその取り巻きが暴走し、自壊していく』内ゲバものである。

 

そこに、ライチと呼ばれる少年たちが作ったロボットや、少年たちがロボットに拉致させた美少女カノンなどが入り混じりカオスな状況になっていく。

 

冒頭に『東京グランギニョル』と銘打たれており、なんのことかと思えば昭和の前衛劇団の名前であり、本作はその劇団が講演していた演劇を原作にしているとのこと…

 

グランギニョルとは、フランスパリを中心に19世紀末から20世紀末まで存在した見せ物小屋や演劇のことを指し、後に骨董無形で血生臭いといった形容詞として使われるようになった。

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その名前からもわかるように、ライチ光クラブでは、中学生達のリーダー『ゼラ』を中心に、粛清の名の下ひどいリンチや処刑が行われていく。

それがグロイのだが、その描写が『閉鎖空間の中で正しい判断ができなくなっていく少年たち』が妙に生々しくて目を逸らすことができない。

更に、メンバー間での男色趣味が描かれたりと、『少年』しか持たないユニセックスな個性がただのエログロ漫画ではなく、どこか美しい漫画にしている。そのエログロだけど美しい塩梅がこの漫画が長年愛される理由なのであろうか!?