恥ずかしながら読み終わった後、しばらく呆然とするほど感動した。
『博士の愛した数式』は記憶が80分しか持たない元数学者とその家政婦である私と息子のルートの暖かな交流を描いた名作である。
家政婦として私が派遣されたのは、記憶が80分しか持たない数学者の老人。
いつも数学雑誌の懸賞問題に取り組んでおり、気難しく数学以外には興味を示さない博士。
そんな博士に戸惑っていた私だが、息子のことを口にしたところから博士の様子がガラリと変わる。
博士は『子供を置いて私のところに料理を作りにくるなどもってのほか、明日からは子供を連れてきなさい』と言う。
明日になればもちろん言ったことも忘れてしまうのだが、博士はやってきた息子をこれ以上ないほど暖かく出迎える。
気難しさはどこかに消え去り、幼きものを守る庇護者として息子を存分に可愛がるのだ。
そして、息子の人よりも平らな頭を撫で、数学記号の√(ルート)と名づける。
『どんな数字でも寛容に匿ってやる実に寛大な記号』という言葉を添えて。
それから3人の交流が始まる。
私は博士から時折聞かせてもらう数学の話に夢中になる。数学の公式にある不可侵の変え難い真実の美しさに魅了されるのだ。
この物語のキモは当然、博士が80分で記憶がなくなってしまうところにある。
どんなに素晴らしい1日を3人で過ごしても博士は一晩経てば忘れてしまうのだ。
しかし、それがどれほど重要だと言うのだろうか?
ルートも私も博士に対する親愛の念はまったく変わらないし、博士も2人のことを忘れてしまうのだが、会うたびにルートを抱きしめ、私に数学の美しさを説く。
最も重要なことは、記憶がなくなってしまった程度ではなくなりはしないのである。
それは数字が導き出す不可侵の法則が決して犯されないのと同じように。
・うがった見方をするならば…
うがった見方をするならば、この小説は作者である小川先生のストーリーテリングと文章力の高い技術が随所に見られる、まさに計算された作品とも言えよう。
まず、気難しい博士が子供に対しては慈愛に溢れた態度を取る姿は、脚本の基本的な技術『セイブザキャット』に則った手法とも言えるし、中盤、博士の家政婦をクビになる展開は、物語曲線の感動型における、中盤の急降下に当たる箇所だ。
これらにより、読者はキャラクターに親しみを覚えると共に、一見緩やかなストーリーの中に緩急が生まれて目が離せなくなるのである。
また、博士を見守る母屋の未亡人の使い所も巧みだ。
博士が記憶障害になる前、2人は恋仲だったことが作中の後半明らかになる。
義理の姉と義理の弟だった2人の恋は単純なものではなく、そこには入り組んだ複雑な物語があったであろうことは容易に想像できる。
しかし、そこで2人の過去や関係を明かすことを最後までしない。
そうすることにより、我々は2人の関係性を無限に空想させられてしまうのだ。(国境の南、太陽の西で記したミロのビーナス理論である!)
カート・ヴォネガット御大は『計算を超えた真実の物語』の重要性を自らの本で語っていたが、しかし、計算し、それをあたかも真実のように見せることこそ、小説家の腕の見せ所ではなかろうか?
そう言った意味では、この小説は素晴らしく優れた一片の公式ともいえよう。
それはeπi+1=0と同じく、複雑さにたった1を足すと、美しい0が現れるような…